ウクライナへ行く前に知りたい歴史。「ディナモ ナチスに消されたフットボーラー」

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ウクライナ

こんにちは。ヨーロッパ女子ひとり旅専門家のカジヤマシオリ(@Kindermer)です。

4月10日~ウクライナとモルドバへの旅を前に…
「ディナモ~ナチスに消されたフットボーラー~」という本を読みました。

そこに書いてあったのは、第二次世界大戦中、ソ連とナチス・ドイツの狭間で窮地に立たされながらも、サッカー選手としての誇りを捨てなかった人々のこと。

「死の試合」と呼ばれる試合のこと。

ウクライナの長い歴史の中では一瞬のことなんだろうけど、あまりにも苦しくて、事実とは思いたくない。

サッカーに詳しくなくても、ウクライナに興味がなくても、これからの未来を生きるうえで知っておいたほうがいいんじゃないだろうか。

ウクライナという国と接点を持ったから、たくさんの人に知ってほしいと思った、

「ナチスに消されたフットボーラー」たちのこと。

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「死の試合」が行われるまでの経緯

物語の始まりは、1941年6月。ウクライナの首都キエフのはるか遠くから聞こえた爆発音。

誰もが雷鳴だと勘違いしていたけれど、それはウクライナに攻め入ったドイツ軍の爆撃音だった。いわゆる戦争の始まり…

その日は街のサッカーチーム、ディナモ・キエフにとって特別の日となるはずだった。

新しいサッカースタジアムのこけら落としの日だったのだから。

もちろん行われるはずもなく、街は約2か月でナチス・ドイツの手に落ちる。

 

ディナモ・キエフの面々は、赤軍メンバーとして戦線で戦ったり、街を守るためにとどまったり、家族とともにキエフを離れたり…

街に残り、占領下で日々ぎりぎりの生活を送っていたメンバーたちは、しばらくパン工場の強制労働をさせられていた。

その中でもサッカーが好きという気持ちを持ち続け、仕事のあとには労働者を楽しませるべくサッカーに興じていた。

占領後はもちろんチームとしての活動はストップしていたが、ドイツによるウクライナ・サッカー再開の宣言により「FCスタート」としてリーグに参加。

試合の相手は、ハンガリーやルーマニア軍などの兵士たち。

ドイツの庇護のもとで練習環境・労働環境ともに恵まれた生活を送る相手チームに対し、FCスタートの選手たちの肉体的不利さは否めない。

「確実に占領国側が勝てる」と踏んだうえで、その力をキエフ市民に見せつけ、より支配を強める目的があったにもかかわらず、FCスタートは大勝を続ける。

スケジュール的に不利な試合を組まれても、審判が不公平なジャッジを行っても、圧倒的な得点差をつけて勝ち続けた。

ドイツ軍兵士との「死の試合」

どんなチームと対戦しても、負けないFCスタート。

「このまま勝ち続けられたら、キエフ市民を活気づけ、暴動や蜂起を引き起こしてしまう」と感じたドイツ側は、とうとうドイツ軍兵士との試合を組んだ。

肉体的・精神的。優位性を信じるアーリア人によって結成されたチームが、ウクライナのチームに負けるはずがない。

もしここでも勝てば、キエフの選手たちに命の保証はないことは明らかだ。

もちろん、審判のジャッジはドイツ側に有利なもの。

ドイツ軍からの圧力もある。そのような状況でも、選手たちは勝つことをあきらめなかった。

サッカー選手としての誇りを持ち、ひとりひとりが懸命に戦った。

 

結果、FCスタートが5-1で大勝。

何かの間違いだと再戦を設定したドイツ軍だが、3日後の試合でも5-3の勝利。

再三の脅しや政治的圧力に動じることなく、サッカー選手としての誇りを貫き通した。

観客席では、大勢のキエフ市民が歓喜に沸いている。そう、ドイツ軍のプロバガンダは失敗に終わったのだ

勝利をおさめたにも関わらず、選手たちに喜びの色はなかった。

その場で虐殺されてもおかしくないような状況だからだ。誰もがその後に待ち受ける報復を予感していた。

 

しかし、彼らの想像に反して、すぐに報復措置がされることはなかった。

それはドイツ側がどのような手を下すかしばらくためらっていたからだ。

これまで通りパン工場での業務を続けていたある日、そこにゲシュタポ(ドイツ側の秘密警察)が乗り込んでくる。

試合に出た選手たちを一人残らず逮捕し、「死のキャンプ」と呼ばれた収容所に送り込んだ。

食料もろくに与えられず、寝る間も惜しんで働かされるか、死を待つか、兵士たちの気まぐれで殺されるか…

この収容所から帰還できた選手はほとんどいない。少なくとも4人が虐殺され、行方のわからない選手もいる。

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ざっと「ナチスに消されたフットボーラー」たちに起こったことをまとめるとこのような感じです。

本の中では、ウクライナ・サッカーの歴史や占領状況、選手たちが集まった経緯やひとりひとりの生い立ち、プレースタイルにも触れられています。

そして「死の試合」以降のウクライナ・サッカーや、生き残った選手たちのことも。

予備知識がないまま読んだのでなかなかキツかったですが、そういった描写も十分に盛り込まれていてわかりやすかったです。

ここからは、私が印象的だと思ったエピソードやセリフについてもっと掘り下げていこうと思います。

「皆さんが勝つことが許されないことを理解せねばなりません」

「死の試合」の前、キエフ側のロッカールームに審判がやってきた。

ドイツ側の制服に身を包んだ男は礼儀正しく、キエフの選手たちにわかるように流ちょうなロシア語を話していた。

「本日は私が審判を務めます」と、ゆっくり一言一言を紡ぎ出した。

「私はあなたがとてもすばらしいチームであることを知っています。すべてのルールに従い、ルール違反は一切ないように願います。それから試合の前にはわれわれの方式にのっとった挨拶をしていただきます

 

この言葉が持つ恐ろしさにお気づきだろうか。

われわれの方式=ドイツの伝統。総統のアドルフ・ヒトラーに忠誠を誓う、あの言葉を思い出す。

そう、試合前には「ハイル・ヒットラー」と挨拶をしろ、という意味なのだ。

それは選手たちにとてつもない圧力をかけることとなった。

チームとしてヒトラーに忠誠を誓うか?それとも母国・ウクライナへの忠誠か?選択が求められた。

 

試合開始前、ドイツ軍チームはもちろん「ハイル・ヒットラー!」と声を揃えて唱える。

固唾を飲んで見守る群衆の前で、キエフの選手たちが選択したのは「フィッツカルト・ウラー」という言葉だった。

ソ連において、それは「スポーツ万歳」という言葉。
誰かに忠誠を誓うのではなく、あくまでも選手としての誇りを選択したのだ。

試合のハーフタイム中にも、ロッカールームにはドイツ側の訪問者があった。

審判とは別の男だが、彼は選手たちにプレーの素晴らしさをほめたうえで「皆さんは勝つことが許されないことを理解せねばなりません」と言い残した。

自分たちの置かれている状況、選択がどれだけ重たいものなのかを、全員が察した。

 

このような圧力がかかっていたキエフの選手たちだが、最後までサッカー選手としての誇りを失わなかった。

その事実に衝撃を受けた私は、寝食をも忘れてページをめくり続けた。

サッカースパイクを手放さなかった男

キエフが陥落し、今後もサッカーが続けられるかどうか不透明な状況。

多くの選手たちが目の前の現実と戦うことに必死で、再びサッカーができるとは思っていなかった。

そんな状況でも、ずっとサッカースパイクを手放さなかった男がいた。

貪欲なプレーが売りのフォワード、マカール・ゴンチャレコだった。

街が陥落し、絶望的な状況にあっても「いつサッカーをするときが来てもいいように」と手放さなかったという。

もちろん他の選手も、ディナモ・キエフとサッカーを心底愛していたとは思うが、この男の信念にはただならぬ情熱を感じる。

そんなゴンチャレコが、FCスタートの生き残りとして戦後も生き続けたことは「運命」という言葉だけでは片づけられないような気がする。

彼も収容所にいたが、チームメイトたちが虐殺されたことを人づてに聞き、脱走を企てた。

命からがら成功し、チームメイトや自分に起こったことを後世に伝えた。

試合当日の様子やロッカールームでの一件、虐殺されたことが明らかになっているのは、まぎれもなく彼の功績だ。

ナチス・ドイツが徹底的に排除しようとしたもの

一般的に、ナチス・ドイツが徹底的に排除しようとしたものは「ユダヤ人」というイメージが強いように思う。

それはまぎれもない事実で、支配下においた国に次々とユダヤ人収容所を建て、強制労働と虐殺をすすめていった。

 

しかし、ヒトラーがもくろんだのはユダヤ人の抹殺だけではない。

ドイツ人=純潔なアーリア人こそが最も優れているという思想のもとで、それ以外のものも抹殺しようとしていた。

キエフ陥落時も大量のユダヤ人が虐殺されたが、それ以外の純潔なアーリア人ではない市民も同じ運命をたどった。

選手たちも純潔なアーリア人ではなかったから、ナチスに消されたのだ。

 

また、ユダヤ人であっても「優れた遺伝子を持っていない」という理由で虐殺の標的になった人々がいる。

それは障害者やLGBTなどだ。一概に「優れていない」と判断され、彼らも虐殺された歴史を持っている。

今の日本にヒトラーのような支配者がいたら…

「純潔で優秀な日本人しか認めない」と言えば、障害者の私は真っ先に収容所送りになるだろう。

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誰にも屈しない。信念と誇りを持って旅を続ける

ヨーロッパの景色を、これからも旅を通して知りたい。見たいもの、触れたいものがありすぎる。

だから私はまた、旅に出る。

だけど、ヨーロッパを舞台に人種差別政策がとられたり、戦争が起こったりすれば、旅を続けることは難しくなる。

旅するどころか、今いる場所から離れられなくなる可能性だってある。

ヨーロッパをふらふらし始めてから「世界平和」「平等」「差別」について真剣に考えるようになった。

ヨーロッパは、私にとって居心地のよい場所であってほしいから。

「ナチスに消されたフットボーラー」のようなことが繰り返されないように、と説に願う。

 

私は、誰にも屈しない。

これからもヨーロッパを旅したい。障害者としてもいち旅人としても、強い信念と誇りを持って旅を続けて行きたい

 







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